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「あれ?」
 横井 陽一(よこい よういち)は間抜けな顔を上げた。
 ふと見上げた黒板に自分の名前を見つけたからだ。
 自分の名前の上には「図書委員」という文字がある。学年が高校二年へと上がり、新しいクラスでの委員決め。ちょっと考え事をしている間にいつのまにか書かれていたのだ。彼に、断りもなく。
「先生、あのっ!」
 この理不尽な決定に陽一は思わず立ち上がる。彼は小柄だ。顔も幼く、おかっぱ――と言うより坊ちゃん刈りとでもいった方が適切なその髪型も幼さを助長している。そしてその抗議の声もまた、容姿を裏切らずかわりらしいとさえ言えるものだった。しかし、それでも抗議には違いなく、担任の教師は答える。
「おお、横井。お前どこにも立候補しないから、残った委員に割り当てたぞ」
 返ってきたのは穏やかな、しかし拒絶を許さない言葉だった。
 どうやら逃げ道はないらしい。陽一はぼんやり、このホームルームが始めにあった説明を思い出した。
 部活に無所属な者は、時間に余裕があるから優先的に委員になってもらう、と。
 優先とは言っても半ば以上強制だ。だから部活に無所属である陽一が図書委員になることは、なにか特別な理由がない限り決定事項だった。
 そしてそんな特別な理由など、陽一にはない。
 でもなにか言いたい。そう思いさまよう彼の視線の先には、黒板の文字が目に入る。
 図書委員。その下にある自分の名前。図書委員の割り当ては二名だ。もう一つ名前がある。
 矢島 八重子(やじま やえこ)
 そう、書かれていた。陽一は視線を彷徨わせる。
 いた。
 窓際の、真ん中よりやや後ろの席。日が暮れ始め、赤みを増す陽光に溶けるような白い肌と、鈍く光を跳ね返す黒い髪の少女。
 矢島は、その視線に気づいたようでもなく、それどころか周りの喧騒すら聞こえないという風に、ただ黙々とその手に広げた文庫本を読み耽っていた。
 周り全てを拒絶するかのようなその様子に、彼女が一緒に抗議してくれる可能性など微塵も感じられない。陽一はあきらめ、席につくのだった。

 彼女は低脂肪

 
 

 この学校は長い歴史を持ち、それは実に100年にも及ぶ。しかし時間の積み重ねは必ずしもそれに見合う価値を生み出すわけではない。ただ名前だけが残るその学校は、歴史の流れの中、格式を保つことができなかった。現在の評価は、他の新しい一般校のそれとさほど変わらなくなっていた。その長いだけの歴史を証明する数少ない一つ。それがこの図書館だった。
 図書館は、校舎とは独立した建物となっている。二階建てになっており、一階は本で埋め尽くされ、二階は閲覧スペースとなっている。が、以前不良生徒のたまり場となっていたとかで、二階は数年前から閉鎖されていた。
 だが、一階だけでも十分以上に広い。蔵書量も並の学校の「図書室」の数倍はある。
 図書館は、その全てが木造だ。何度も改修されたがそれだけは変わることが無い。歩くたびに軋む上に、照明も近年の建物に比べれば少ない。見るものが見れば「風情がある」との感慨を抱くかも知れないが、現代の学生からすれば不気味さばかりが際だつ。幽霊屋敷のように扱われ、怪談の主役になることもしばしばだ。
 学校側では実のところこの「遺物」を持て余しており、近々立て直されるというウワサだった。ただ、資金が確保できず、現実的にそれは不可能とのウワサもまたあるのだが。

 そんな中、横井 陽一はびくびくしていた。
 今日は彼が委員になり、初めての図書委員の当番だった。
 古めかしい、まるで高級ホテルのように調度がととのったカウンター。そこに落ち着かない様子で座る彼は、幼い外見のせいもあり、場違いという言葉が似合っていた。放課後という時間もまた、この図書館にまつわる様々な怪談を思い起こさせ、それが彼のおびえを一層くすぐるのだった。
 隣に座る矢島八重子は、黙々と本を読んでいた。
 落ち着いたその様子は、陽一とさほど変わらぬ背格好でありながら風格がある。古びた、それだけに風情のあるこの空間にぴったりと合っていた。
 抜けるように白い肌は、やや薄暗いこの図書館の中ではその白さが際だち、まるで自身が光を放っているかのようだ。わずかに肩にかかる真っ直ぐな髪も、その大粒の瞳も、共に黒。闇に溶けそうな、深い黒だ。それもどこか現世離れしているようで、嘘みたいに綺麗で、まるで現実にいるのが嘘みたいで、
(……まるで幽霊みたいだ)
 陽一はそんな風に思った。
 すると、ぱたんと本を閉じ、矢島は陽一の方を見た。
「え……?」
 今まで本を読む以外の動きをしなかった少女の一瞥に、陽一は戸惑う。
 そして。矢島は声一つ立てず、それどころか表情のひとつも見せず、ただ足下を指さした。
 その指の先を目で追うと、白いハイソックスと白い布地と赤いゴムの上履き。細く小さく、それだけに繊細で綺麗な脚がある。彼女の座るイスは、やや背が高い。足先と床の間にはすこし隙間がある。その間にはなにもない。床になにが落ちているというわけでもない。
 つまり、他に目立ったものは見当たらない。
 首を傾げる陽一に、
「足……」
 突然の声に、陽一はびくりと震える。
「ちゃんとある」
 それだけ言うと、彼女はまた本に向き直り、読書へと戻る。
 陽一はぽかんとして、しかし考え、やがて思い当たる。

「ぼ、僕また口に出しちゃってた!?」

 陽一には個性がある。
 一言で言えば「素直」なのだ。
 何事も素直にとらえ、素直に感動し、そして時折素直にそれを口に出す。それも、無意識に、だ。
 たった今もそうだ。この幽霊でも出そうなぐらい歴史のある図書館に素直に脅え、そこで平然と読書に没頭する少女に素直な感想を抱き、それを素直に口に出してしまったのだった。
 そんな素直さを後悔する彼に、
「私は幽霊じゃない」
 矢島はにべもなかった。その視線は本に向けたまま。陽一の方に顔を向けさえしない。
「ご、ごめん! 僕、思ったことがすぐ口に出ちゃうんだ!」
 あわあわと、それこそ泣きそうなくらい必死に弁解しようとする彼を、
「そう。なら……黙っていて」
 矢島は一言のもとに切り捨てる。
 確かに黙っていることを守れば、うっかり口に出ると言うこともないはずだ。正論ではあるものの、彼を見ることさえせずに放たれたその言葉はあまりにも容赦がない。
 そんな一言を、陽一は、
「ご、ごめんなさい!」
 ただ、素直に。彼女が怒ったのだと思い、まず謝った。
「僕、思ったことがすぐ口に出ちゃうんだ。けっして悪気があったわけじゃなくて、えとその……」
 滑稽なほど必死に謝る陽一に、しかし矢島はもう相手にしないとばかりに読書を続ける。
「だから、だから……! 君があんまり綺麗でこの世のものじゃないみたい、って思ったのも、本当に思ったことで嘘じゃないから!」
 陽一のよくわからない謝罪に、初めて矢島が動きを見せる。
 急いで本を閉じ、そして陽一の方を向いたのだ。慌てた動きは今までの彼女の所作とは明らかに違っていた。
 しかも、さっきはちらりとしか目を向けなかったのに、いまはまっすぐに陽一の方を見つめている。
 見られて、陽一ははっとなる。
 肩まで伸びる黒い髪は、乱れ一つなく漆黒の輝きを放っている。そうだ、彼女には乱れというものがない。その髪も、整った顔も、シワひとつないセーラー服も、なにもかも。全てに無駄なく、乱れというものがないのだ。
 しかし、今はひとつだけ違う。その瞳。瞳が、わずかだが揺れている。その瞳に、陽一は引き込まれた。目を逸らすことができない。
「見たの……?」
「な、なにを……?」
 今見ていたのは彼女の瞳だけだった。他になにも考えることができなかった。だが、それは彼女にもわかっているはずのことだった。しかしそれ以上考えが及ばない。
 陽一はそれでも彼女の問いに答えようと必死に考え、しかし思いつかず、ついには腕組みをしてうんうんうなりだした。
 その様子に、矢島はため息を吐く。
「それは、口に出していなかった」
「え?」
「君は『まるで幽霊みたいだ』と言っただけ。他にはなにも言っていない」
「そ、そうなの?」
 陽一はほっと胸をなで下ろす。なにしろ無意識なのだ。思ったことはなんでも口に出していて不思議ではない。
「思ったことを何でも口に出してしまうわけではないのね……その様子だと、まだ他に変なことを考えていたみたい」
「そ! そんなことないよ! ただこの図書館、なんだか不気味だなって思って……」
「不気味な私といっしょだから、なおさらね」
 この言葉が、笑顔と共に言われたものなら冗談に聞こえたかも知れない。そうでなくても皮肉にとられる程度だろう。
 しかし、矢島の表情は一ミリも変わっていない。
 表情がまるで読めなかった。その得体の知れなさに、陽一は焦る。
「そ、そんなこと思ってもないよ!」
 両手を大きく振りながら、否定する陽一。
 そんな姿に、彼女はまたため息を一つ。そして、
「そんなに嫌ならさぼればいい」
 陽一の動きが止まった。
「どのみち人のこない図書館。借りに来る人もほとんどいない。受付には一人いれば十分。私がいるのだから、君はさぼればいい」
 と、当然のことのように言った。確かに人は来ない。二人が当番を始めてから、図書館に入るものは皆無だった。
 学校とは別の建物という立地条件。そして古めかしさゆえに広まる怪談のたぐい。結果、利用者は少ない。矢島の言葉の通り、二人もいる必要はなかった。
 対して陽一は、キョトンとし、
「だめだよ、当番だもの」
 と、これまた当然のように言った。
 根が素直、と言うよりはお人好しの陽一にとって、それは当たり前の認識だった。
 だが、彼女にとってはそれは当たり前ではなかったようだった。ほんのわずかだが彼女は目を開いた。信じられないものを見た、という顔だ。
 そんな彼女をじっと見ながら、陽一は不思議そうに首を傾げる。
 驚きと、疑問。そんな奇妙な視線の交錯は、しかし、
「そう。なら……耐えて」
 という矢島の一言で終わった。
 彼女は視線を戻し、また黙々と本に没頭しだす。
 しかし陽一は彼女を見たままだ。
「ねえ?」
 呼びかけに、矢島は応えない。もう興味はなくなったとばかりに、無視の格好だ。
 陽一は徐々に彼女に対して興味が湧いてきた。元々が話したことすらなかった女の子だ。
 思えば矢島は、本を読んでいるという印象しかない。彼の知りうる限り、それ以外の彼女を見た覚えがなかった。
 休み時間はずっと本を読んでいる。授業中ですら板書を写すのと教科書を読んでいるだけで、それもまた本を読んでいるのと大差ない。そういえば体育の授業でも、グラウンドの隅で座って本を読んでいた――どうも、身体が弱いらしい。友達と話すところも見たことがない。いつも、本、本、本だ。
 だから陽一の呼びかけに答えもせず本を読み耽るその様は、普通なら「おかしな女の子」という結論で落ち着き、それ以上の思索はしないだろう。あるいは、無愛想さに怒るかもしれない。
 しかし陽一は違った。
(そんなに没頭しちゃうくらい面白い本なのかな)
 彼は人がいい。相手を悪い人間だとはなかなか思わない。だから無視されているこの状況を、「相手がイジワルだから」ではなく、「声が聞こえないくらい夢中になって本を読んでいるから」と解釈した。
 そして同時に、彼は子供っぽくもある。
 なんとか振り向かせたいと思った。
 そして思いついたことは、
(触れたら、どうなるんだろう)
 これだ。
 幽霊のいそうなこの図書館の中、幽霊のようにおぼろに思えた矢島八重子。本当に触れることができるのか、などというおかしな考えに至ったのだ。
 思ったことが勝手に口に出てしまうほどの彼のことだ。そんなことを考えていたら――気づけば既に、人さし指が頬に触れていた。
(や、やわらかいっ!)
 自分が思わず触れてしまったという事実より、まずその感触の驚きが先に来た。
 確かにやわらかかった。まるでマシュマロのような柔らかさだった。つついたらどこまでも入ってしまいそうで、しかし確かに柔らかな感触を返してくるその至福。
 そして……どこか”懐かしい”。
(……なんだろうこの感触は……?)
 無心につつく。素晴らしい手応えだった。完璧な柔らかさだった。
 その感触に、陽一の思いは幼少の頃に辿り着く。それは小学生の頃。乳離れしてずいぶん経ち、母親の胸の感触を忘れかけた頃。そして同時に、まだ触れたことのない女性の胸にほのかなあこがれを抱いた時期。そのころに妄想した胸の、どこか現実味ないやわらかさ。
(そうだ、この柔らかさはあの頃のやわらかさ! 妄想オッパイのやわらかさなんだ!)
 ようやく真理に辿り着いた陽一の胸に去来するのは、小さな感動。
 それが、凍り付いた。
 矢島が動いたからだ。
「!」
 矢島の動きは、先ほどまで静止していたとは思えないほどに素早かった。
 動きは、一箇所。即ち、彼女の左手。
 動作は、ひとつ。それは、陽一の人さし指をつかむこと。
 細い指だ。柔らかく、体温は陽一よりわずかに低いのかひんやりとしており、そして同時にしっとりとした感触だった。
 それらに、彼の心臓は一つ大きく動いた。
 ときめきにも錯覚しかねないその心臓の動きは、しかし恐怖によるものだったのだろう。
 なぜなら、彼は不遜な行いをしたのだ。その報いは必然。それは、わかっているはずだった。
 だから、次の展開も当然と言うべきなのだろう。
 その後の矢島の手の動きは乱暴の一言だった。
 陽一の指は強引に曲げられた。向きは、指が本来曲がらない方。そっちに向けて、ぐりっと。
「きゃおーっ」
 痛みが走る。それも鮮烈に。陽一の口から、よくわからない中途半端に情けない悲鳴が出た。
「人の頬をつつくだけならまだしも……」
 さらにぐいと、角度をきつくされる。今度は陽一の口から悲鳴は出ない。そんな余裕がないほどに、痛い。
「それをおっぱいよばわりされては、思い知らせずにはいられない」
「そ、そんなことまで、僕、言っちゃってた、の……?」
 陽一の恐怖は最高潮になる。
 だってこの時にいたってさえ矢島に乱れはないのだ。真っ直ぐな髪も、その整った顔も。
 いや、一つだけ異なる。
 ただ、口元だけが。微かに。

 ――笑みの形に歪んでいるのだ。

「ご、ごめんなさいーっ!」
 答えず、矢島は左手を動かした。ぐりっと、急に。こんどはちょっと別方向の角度もくわえて。それが陽一にさらなる痛みを与える。
「やめ、だめ、それ以上したら僕どうにかなっちゃうーっ!」
「平気、まだいける」
 矢島の笑みが、ほんのわずかだけ深くなった。それは見ただけではわからない微かな動き。しかし陽一の絶望を煽らずにはおかない、確かな動き。
「だめーっ!」
 陽一は痛みから逃れようと膝を折る。
 その急な動きに矢島は慌てた。無論、本気で折るつもりはない。しかし派手な陽一の反応にその危険性が出た。
 陽一の動きについていこうとし……しかし、元々イスに座った不安定な状態だ。
 結果、バランスを崩した。
 陽一の指を掴んでいた手を急いで離そうとする。それには成功。しかし、そうなると崩れるバランスを支えるものがない。足のつかない高いイスにすわっていたことも災いした。
 残った右手を伸ばす。机の上。触れたのは彼女の読んでいた本。とにかく掴む。
 しかし、当然それは支えにはならない。本は彼女の必死さとは無関係に、机の上をずるずる滑る。
「あっ!」
 短い悲鳴を残し、彼女は床へと落ちる。
 衝撃は彼女が予想したよりなかった。クッションとなるものがあった。
 陽一がいた。
「あたたた……って、えええっ!?」
 彼が驚きの声を上げるのも無理はない。
 彼ももまた、倒れていた。床の上に仰向けの格好だ。
 そして……その上に覆い被さる形で、矢島がのっかっていたのだ。

 彼女は乱れていた。

 ころんだせいで髪が乱れている。表情も片目を閉じ、眉を寄せている。
 予想した重さがない。余分な脂肪などない、ほっそりとした小柄で少女らしい身体。それが、自分の上に乗っている。
 陽一にはそれがわからない。理解できない。

 見て、儚さを綺麗だと思った。
 触れて、柔らかさに驚いた。
 話して、怖かった。

 そんな彼女が、乱れて自分の上にいるのだ。そのことに、理解が追いつかない。
 とても「いけないこと」をしていると思った。心臓が早鐘のように鳴る。頭ががんがんして、なにも考えられない。
 それなのに、心臓が止まる、と思った。
 なぜなら、彼女が自分のことを見ていることに気づいたから。
 ただ、立ち上がろうともせず、じっと陽一のことを見つめているから。
 どれくらい時間が経っただろうか。誰もいない図書室は、あまりにも静かで、時間が止まっているかのようで、だからどれだけ時間が経ってもわからないのではないかと陽一は夢想した。
 そんな時間が止まったような瞬間は、矢島の長いため息で終わった。
「これも、ダメなのね」
 抑揚無く呟き、矢島は立ち上がる。
 その様子には照れもなにもない。陽一は呆然と見るばかりだ。
 その矢島が動きを止めた。戸惑うようなその視線が自分の方を向いていることに気づき、陽一は動揺する。なぜ自分の方を見るのかわからない。それも、そんな迷うような視線を向けられる理由が思い当たらない。
 あわてて立ち上がろうとし……そして気がついた。自分の脇に、彼女が読んでいた本が落ちている。
「ああ、ごめんなさい」
 とにかく謝り、本を拾って立ち上がる。
 落ちたどさくさで、本にかけられた紙のカバーがずれていた。陽一があわてて持ち上げたことで、それは完全に落ちる。
 そして、否応なく陽一の目に飛び込んだのは、本のタイトルだった。
 
 『愛しいあなたとラブラブランデブー』
 
 ファンシーな字体でそう書かれていた。その表紙を飾る絵も、繊細で華美な少女漫画のものだった。
 コテコテの少女向けの恋愛小説だった。
 そうした本に知識がない陽一も一目でそのことはわかった。
 そして、それは彼にとってとても意外だった。てっきりもっと固い本を読んでいるのかと思った。それがこんな軽めの、それも恋愛小説だとは思いもしなかった。
 それが顔に出たのだろう。もしかしたら、また言葉にも出ていたのかも知れない。
「そんなに意外?」
「い、いいいやそのっ!」
 なにかひどく気まずくなり、慌てる陽一。しかし相変わらず矢島は無表情だった。今の質問も、まるで何でも無いことを聞くかのような様子だ。
 そして、次の質問でもまた、矢島の表情は動かない。
「ねえ、君は……今のシチュエーションでときめいた?」
 陽一は初め、なにを問われているのかわからなかった。三拍ほどの時をおき、ようやく理解して、
「えええええっ!?」
 悲鳴を上げた。
 そんな彼を矢島はただじっと見る。陽一はひとしきり驚いた後、ようやくその視線に気がついた。そして、
「す、すごくドキドキしました!」
 彼らしく、全力で素直に応えた。
「私はなにも感じなかった」
 だが、矢島の表情はやはり変わらない。陽一にとってはなんだかとってもショックだった。
「私は恋愛というものがよくわからない。恋をしたことがないし、恋をされたこともない。だから、こういう本を読めばわかるかと思ったけど、少しもわからない」
 矢島が視線を逸らす。その向かう先は、未だ陽一の手の中にある恋愛小説だ。
「……さっきもそうだった」
「さっき……?」
「君はさっき、『君があんまり綺麗でこの世のものじゃないみたい、って思った』って言った」
「う、うん」
「そのセリフ、この本にあるの」
「え、ええっ!?」
 彼は確かにそのせりふを言った。そして彼女に問われた。「見たの……?」、と。
 ようやくわかった。矢島は「本をのぞき見して、そのセリフを言ったのか」と聞いたのだ。
 なんて偶然があるものだろう。陽一は愕然とする。しかし、彼が驚くのはまだ早かった。
「そのセリフのあと、女の子が男の子を押し倒すの」
 一瞬、彼の思考が止まった。息も止まった。心臓も止まったような気もする。
「お、おおお押し倒すぅっ!?」
「ちょうど今みたいに」
 今。陽一の上に、矢島が乗っていたことを思いだし、彼の心臓はまたしても全力で運転を開始する。
「でも、私はときめかなかった。この恋愛小説もダメね」
 陽一の心臓は忙しい。矢島の言葉に冷や水を浴びせられたような気分になり、心臓もそれに答えようとする。
 陽一は、理由もわからず、それでもなぜかがっかりした。
 上下に激しい陽一とは裏腹に、矢島は表情を見せないままだ。
 素直な陽一にとって、その様子は……悲しそうだ、と思った。
 表情を変えないこと。声に感情を乗せないこと。素直な陽一が普段当たり前にやっていることが、彼女にはない。それはとても窮屈で苦しくて、なにより悲しいことだと思ったのだ。
 だから、なにかしたいと思った。いや、なにか「しなくてはいけない」と思った。
 でも、彼にできるのは、結局ひとつのこと。
 
「それでいいと思うよ」

 できるのは、素直に思ったことを告げるだけ。

「君はその物語のヒロインじゃないんだから、君が感じたままでいいと思うよ」

 それは感情や思ったことを隠すことのできない陽一にとって、当たり前の言葉だった。
 彼女に表情が生まれた。それは、かすかなもの。しかし確かな、驚きの表情。

 そして、彼女はようやく気がついた。

 何も感じないと思っていた。いや、思いこんでいたといういことに。
 何も感じていないと言うのなら、説明がつかないことがある。
 微かに、胸が高鳴っている。
 手を見る。気づけばわずかだが震えている。よく見れば少しだけ汗ばんでいる。
 年頃の女の子が、男の子にあんな風に触れれば、それは当然のこと。
 だが、彼女に自分にそれはないと、思いこんでいた。だから気づかなかった。目を逸らしていた。
 それに、気がついたのだ。

 それが、ようやく正しい形で彼女の表情に顕れた。
 
「あ……」
 陽一が声を漏らす。
 だって花が咲いたから。
 色の無かった、彼女の白い頬。そこに赤みが差したから。それは野に咲く花のように控えめで、しかし可憐な輝きだった。
「綺麗だ……」
 素直に漏れたその言葉は、真っ直ぐに矢島へと届いた。
 だから、彼女はどうしていいかわからなくなる。とりあえず背を向ける。そして足を踏み出す。止まらない。止まれない。止まるわけには行かないと、なぜだか強く思った。
「あとお願い」
 だからその一言だけを残して、すたすたと歩き、そのまま図書館の出口から出て行ってしまった。
 バタンという、扉を閉める音だけが後に残った。
「へ?」
 陽一の口から間抜けな声が出た。
 なんだか全然わからない。素直な彼にしては珍しく、想いが言葉にならない。今感じたことがいっぱいあり過ぎて、言葉にできないのだ。それがなんだかもどかしく、むずがゆく、それなのに深いではないのが不思議だった。
 そのとき、チャイムが鳴った。それは今日の図書館の当番も終わりだと言うこと。
 結局、誰も本を借りに来なかった。
 そして、唐突に。
 まるでチャイムで切り替わったかのように彼は不安になった。
 陽一は自分が一人になってしまったことを思い出す。そして同時にこの図書館についての、さまざまな怪談もまた記憶の中に甦る。
 震えが走った。
 いろいろ思うことはあったが、それはそれとして、陽一はそそくさと図書館を去るのだった。
 少し、名残惜しいと思いながら。






 あれから、一週間。
 陽一は憂鬱だった。矢島とはあれから話していない。矢島はいつも一人で本を読んでいて、こちらから近づかなければ話す機会はない。
 そして、陽一はなんだか自分から話す勇気を持てなかった。
 再び巡ってきた図書館の当番。それが彼の心を重くする。
 さぼるわけにはいかない。しかし、今度はきっと一人になってしまうだろう。それが陽一の気分を重くする。あの暗い雰囲気の図書館は、彼にとっては恐ろしいものだった。
 憂鬱な気分のまま図書館に向い、扉を開く。
 
 そこで、目があった。
 
 カウンターに。一週間前のあの日のように。矢島八重子がそこにいた。
 読んでいる本には、今度はカバーを掛けていない。
 タイトルは、『つかまえて! わたしのキラキララブハート!』。またしてもコテコテな少女小説のようだった。
「まだ、よくわからないから」
 何も問われもしないのに、自分から矢島は言った。彼はそんな彼女に笑みをもらし、
「僕も」
 と、彼らしく、素直に答えるのだった。
 
 了

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