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 後ろから喧噪が追ってくる。賑やかで楽しげで、でもうっとおしいざわめき。
 昼休みの廊下、一足早く教室の外に出ていたあたしはその喧噪に押されるわけでも追われるわけでもなく、あえて言うのなら従えるように悠然と歩んでいた。
 いつも通りの淀みなく優雅でなにより堂々とした歩み。でも頭の中はいつもと少し違う。
 なんだか、妙な気分だ。
 朝から変なことばかり起きている。
 まず教師の授業が気に入らなくて代わりに授業をしたこと。別に他のバカなんてどうでもいいのに、なんでそんなことをしたのか。今思うとほんとにバカバカしい。そのせいで柳瀬聖とか言う紅いポニーテールのバカがつっかかられるし、そのうえ……。

「あなたの、負けなの」

 思い出すとむかつく、ひなたとかいう軟体生物の言葉。でも、
 
「言ってみただけなの」

 そう、意味なんてなかった。あたしはあの場においてまったく負けてはいなかった。柳瀬聖には完全勝利と言う他ない完璧な打撃を決めた。たしかにやり過ぎとは思わなかったわけでもないけど、別にそれで敗北なんて事にはならない。
 では、授業を完璧に終えることが出来なかったことだろうか? それも違う。いっときはそう思ったものの、あの時点でも、確実に並の教師以上の成果は上げていた。別に何かに負けたというわけじゃない。
 なにも後ろめたさなんかない。
 妙な気分。
 負け。あたしにはありえない概念。だからこのもやもやした気持ちがわからない。あのぐにゃぐにゃホルスタイン女は、なにについて言ったんだろう。まるで、あたしに負い目があることを見抜いて、それを言葉にしたような……。
 そんなバカな。このあたしにそんなものがあるわけがない。
 
 そのとき。
 なぜか泣きそうな竜ヶ崎の顔が脳裏をよぎった。
 
 ……なんであんなやつを思い出すのよ。くだらない。
 妙な気分。ああ、いいわ。少なくとも退屈ではない。この学校は期待してたとおり退屈な場所ではないらしい。そうよ、竜ヶ崎なんてあたしの頭の一部を占めさせる価値なんてない。退屈だったら思い出すかも知れないけど、ここはそうじゃないんだから気にすることじゃないわ。
 なにしろ、この学校に来た目的をまだ目の当たりにしてさえいないのだ。
 そして、あたしはそこに着いた。
 
「やっぱり、ここよね……!」

 豪奢でいて決して華美すぎない細工の施された扉。その奥に広がるのは、ふかふかの高級そうな絨毯敷きのちょっとしゃれたレストラン。
 しかし、そこはレストランというのとは少し違う。
 この学校最大の特色の一つ。メイド学科の生徒が運営するという学食だ。


ストレンジのーまるデイズ 外伝

神無月愛奈の華麗なる転校
後編



「いらっしゃいませ」

 声と共にうやうやしく一礼をしてあたしを出迎えたのは、黒のワンピースに白のエプロンドレスというフォーマルなコスチュームに身を包んだメイドだった。
 そう、メイド。学食にメイド。
 この学校は「メイド学科」なんていうふざけた学科を持っている。そこでは総合的なメイド教育が行われて、しかも学業の一環というお題目の下、学生メイドが学食を運営しているのだ。
 豪華な内装。それに見合う礼儀作法と技術を備えたメイドのタマゴ達。でもその手で運ばれているのは、学食と呼ぶに相応しい安っぽいランチ。
 言葉で表現するならば、
 
「バカね」

 ため息混じりに吐き出したその一言で充分だ。
 学食に入り、一言目の素直な感想がそれだ。
 豪華に飾り付けられた内装。そして忙しく走り回るメイドは、間違いなくちゃんとした従者としての教育を受けていることが伺えた。
 学校ということを考えればかなり異常な光景と言えるけれど、べつに珍しいとは感じない。メイドなら”家”で見飽きていた。
 ……まあ、それは別にいい。
 メニューを開き、ざっと眺める。Aランチ、Bランチ、日替わり定食にカツ丼素うどんきつねそば。むう、学食らしいメニュー。値段も相応。豪華な装丁のメニュー、並ぶのはやはり学食特有のもの。まあ、こんなもの悩んでいても仕方ない。とっとと決めてしまおう。と、Aランチにしようと心に決めた途端……。
 
「お決まりでしょうか?」

 メイドが立っていた。学食はなかなかの混みようだ。にも関わらずこうして客に目が行き届いているというのはなかなかだ。それを可能にしているのはメイドの実働人数もあるだろう。ざっと見回せばそれだけで忙しく動き回るメイドの姿がいくつも見られる。しかしそれでも無駄なく効率よく動いているようで、それはすなわちこの学校でのメイドの教育がそれなりに本格的であることを意味する。
 でも、それも当然。もっとも学食というのはそもそも大量の学生を昼休みという短い時間で処理しなくてはならない。「メイドの出迎え」なんてものがあり、しかもオーダーまで食券ではなくメイドが直に聞くなんて言う手間をとる以上、そのぐらいの効率の良さが無くては成り立たない。
 
「Aランチにするわ」

 そう告げると、メイドは素早くメニューを回収、そして厨房へと向かっていった。
 まつことしばし。そしてやってきたのは値段と学食という環境にふさわしい内容のAランチだった。
 それは「学食のAランチ」に相応しい安っぽさ。でもそれは材料だけで、火の通りや味のバランスはかなりの腕前で作られている。
 ホント、なんなんだろう、ここは。変な感じ。この学校に来てからずっと変な気分でいるような気がする。
 ええい、あたしらしくない。いらつくことは片づけよう。疑問があるならそれははらすべき。
 だから決断はすぐにできた。
 
「そうね……行ってみようかしら、メイド学科」





 メイド学科はこの学校における最大の退屈しのぎ。それを初日から暴いてしまうなんて、「もったいない」とか言うヤツもいるかも知れない。
 もしいたら、そいつはバカだ。
 お楽しみのおもちゃ箱というものは、最初にひっくり返してみるべきだ。おもちゃを選ぶのに上からひとつずつつまみ出して調べるなんてまだるっこしいことをあたしはしない。上からひとつずつなんてことをしていたら、箱の底で眠っている面白いおもちゃを見るれないかも知れないし、最後に出てきたおもちゃがくだらないものでがっかりするかもしれない。ひっくり返したぐらいで壊れるようなおもちゃなら初めから必要ない。
 だから、あたしは行く。
 放課後の今、メイド学科へと続く森の中を、だからあたしはためらうことなく進んでいく。ひとりで、歩む。
 そう、ひとり。いつものこと。
 人間だれでも異端は排除しようとする。午前中の授業で賞賛されたのもつかの間のこと。午後の授業では奇異の目で見られ、
 それでも取り入ってくるバカはいるし、つっかかってくるバカもいる。でもそれにはもう少し時間が必要だ。この神無月愛奈という強力な才能を何らかの形で受け入れるのには、時間が必要。
 だから今は一人。
 それに、そうでなくてもこのメイド学科への道を案内しようと言うやつはいなかったかもしれない。
 メイド学科の校舎があるという森は、トラップの宝庫だった。
  落とし穴、ロープに網と一般的なブービートラップ。それだけでも素人にはやっかいだろうが、もっとやっかいなのは効果の見えにくいトラップの方だ。
 例えば 森を構成する木は雑然と意味なく生えているようで、実は計算された配置によって中にいるものの方向感覚を狂わすようになっている。かといって太陽から方角を探ろうにも、ほとんどの葉が落ちた今の時季でさえ鬱蒼と生い茂る枝はそれすらも困難。たまに枝の切れ間から空はのぞけるが、太陽が仮にそこから見えたとしてもやはり方向を誤解するように計算された枝振りだ。この分だと方位磁針も効かないように磁性体ぐらい埋め込まれているだろう。
 そして目立ったブービートラップの他に散見されるのは、糸を使ったトラップ。木々の間、足下のふとした隙間に仕掛けられそれは、あたしのように注意力に優れた人間でなければ気がつかないだろう。繊細かつ大胆、なにより陰湿なそれはなかなかのものだった。
  かなり高度なトラップがいくつも仕掛けられている。ちなみに各所に監視カメラがあることも確認したが、それは無視。この神無月愛奈にこそこそする理由などどこにもあるはずがない。
 それだけの数のトラップがある森の中、しかしあたしの歩みに迷いも停滞もない。
 どんなまやかしがあろうと、あたしが進むべき道を見失う筈がない。
 どんな障害があろうと、あたしの足を止めるなんてこと出来るはずがない。
 あたしを一瞬でも立ち止まらせたいのなら、トラップなんて姑息な手じゃだめだ。まず姿を見せなさい。そして名乗ってあたしの目の前に立ちなさい。そうしたら少しは立ち止まって話ぐらいは聞いてあげる。それで、正面から叩きのめして進むわ。

 だから、目の前にそれが「あった」ときには、まず足を止めてやった。 
 
 目の前に現れたのはまるで絵のような光景だった。
 たしかにメイド学科の森は鬱蒼としているがよく手入れされており美しく、どこを切り取っても絵になるだろう。
 しかしその光景を絵だと感じさせるのは、「絵に描いたような現実感の乏しさ」ゆえだった。
 春にはまだ少し遠い今、葉の緑を失いやせ細った木々は固く冷たい樹皮を黒々と見せる。上からのしかかるように広がるのは鉛色の曇り空。地面もまた影が濃く、黒一色。
 そこある色彩は白と黒が多い。
 しかしそんな印象を抱かせる原因は、その中心に立つものが鮮烈に白と黒を主張しているからだ。
 闇のように黒いワンピース。空白のように白いエプロンドレス。色白の肌もまた色彩を感じさせず、吸い込まれそうな瞳に肩まで届く髪もまた、漆黒。ルージュでも引いているのか唇までも黒く、そして薄い。紙のような色白の肌の上にあるそれは、遠目には一本の線のようだ。
 その黒と白は、少女のカタチを描いていた。
 やや幼い顔立ちの、綺麗、と言ってもいい女の子だ。
 本当に、黒と白以外の色彩が無い。灰色なんてあいまいな色の存在を許していないかのようだ。
 あまりに明暗がハッキリしすぎていて、だから現実感に乏しい。白と黒しかないそれは、影絵か切り絵みたいだ。
 しかしそれは絵ではない。なぜなら動く。その所作は、完璧な作法に基づいた一礼。
 目の前に立つのは、黒白のメイドだった。
 
「……あんた、メイド学科の生徒よね?」

 問いかけに、こくり、と小さな動きで頷くメイド。
 そして頷く動きから、首は小さく傾く。それはよく見れば首を傾げているように見えた。
 その様は、「なんでここに人がいるのか」という疑問にも、「あたしが誰か」という問いかけにも見える。
 なら、両方に答えてやることにしよう。
 
「……あたしは愛奈! 神無月愛奈よ! 元優等生にして今日この学校に来たばかりの転校生! 暇つぶしついでにメイド学科なんて言う奇抜で奇妙で奇特な学科をのぞきに来てやったわ!」

 大声の宣言に、目の前のメイドは目をほんのわずか大きく見開く。どうも、このわずかな変化が彼女にとっての驚きの表情らしい。
 そして、沈黙が生まれる。
 首を傾げ、目も見開いたままのメイドはやはり絵のよう。永遠に動かないとさえ思える。
 名乗ったあたしは相手の動きを待っている。
 いや、違う。これは違う。このあたしに待つのなんて性に合わない。
 
「このあたしが名乗ってるんだから、あんたも名乗りなさい!」

 叱責の声にメイドはようやく動き出す。無駄のない動きで無駄のないフラットな胸のあたりから取り出したのは黒のペンと白の紙。さらさらとペンを素早く走らせ、なにかを書き上げるとあたしへ向けて投げる。
 風がないとは言え落ちも上りもせず、ただ一直線に跳んでくる紙を軽く受け止める。固めの手触りと手におさまるちょうどいい大きさがトランプを連想させる。
 白のカード。黒の文字。
 ただそれだけのシンプルなものが、同じ二色だけで構成されたメイドの書いたものだと思うとなんだか洒落たものに思える。
 書かれた文字は、
 
『メイド学科 1年2組 紙成 静夢(かみなり しずむ)』
 
 と読めた。なかなかの達筆だった。
 
「静夢……変わった名前ね」

 素直に感想を漏らすと、目の前のメイド――静夢は首を傾げる。気を悪くしたのだろうか。
 
「なんとか言いなさいよ。ひょっとして、口がきけないの?」

 あたしの言葉に、今度は首を反対側に傾げる静夢。なんだかよくわからないリアクションだった。
 
「……それで、あんたこんなところで何をしているの?」

 どうもこっちから誘導してやらないといけないらしい。まず一番気になることを問うと、静夢は再びカードを取り出し紙に書くや、投げてくる。流れるようなその動きはさきほどより速い。
 
『このメイド学科の森を守護しています』

 書かれた言葉は予想していたものだった。しかしこいつ、いつもこういう会話の仕方をしているのだろうか。まだるっこしいことこの上ない。
 
「そうなの。……で、あたしは行くわよ?」

 守護、ということはこの森への侵入者を排除する役目も持っているのだろう。でも、そんなことあたしの知ったことではない。
 受け取ったカードを捨て、一歩踏み出そうとする。すると、その動きをを牽制するように再びカードが投げつけられる。今度は書かずに投げてきた。あらかじめ用意していたものらしい。
 
『通すわけにはいきません。お帰り下さい』

 カードにはそう書かれている。

「でも、あたしは通るのよ。帰らないわ」

 当然のように言ってやる。
 その声に、静夢はため息を一つ。そして、手をひらひらと動かす。
 軽薄なその動きは、カードをひっくり返せと言っているようだった。
 ためしに今受け取ったカードの裏面を、ひっくりかえして見てみる。
 そこに書かれていたのは、
 
『勝手に来やがったくせになに一人前の口をきいてやがる、このボケが』

 ……ちょっとアグレッシブな言葉だった。
 
「……ふう、ん」

 鼻息一つ吐き、視線をカードから静夢の方へと向ける。
 そこには笑みがあった。
 紙のように白い顔。その真ん中からやや下に、まるでそこだけ切り抜いたように黒い逆三角形は笑みを刻む口だ。不吉とも不気味とも言える、それでもやはり絵に描いたように綺麗な笑み。
 笑みには笑みだ。あたしはニヤリと笑ってその笑みに応えてやる。
 
「なによ。紙に書いた言葉よりその顔の方がよっぽど言いたいことが伝わるってものよ」

 言葉に応えるのは動き。
 右足をわずかに前に、そして左足を軽く引く。手は肩幅より広く、ふわりとわずかに上げる。
 それだけで、ペンと定規で描いたかのように固かった静夢の印象が筆で和紙に書いたように柔らかくなる。
 それはきっと、静夢の構え。ああ、本当に面白い。このメイドはこのあたしと戦おうというのだ。
 言葉ではなく動きで雄弁に語る黒白のメイドに、あたしもまた動きでもって応えてやる。
 一歩。大きく、踏み出す。
 静夢の視線が強くなる。
 それ以上動きは生まれない。空気は張りつめる。収束する。凝固する。
 静寂が耳にいたい。沈黙が頭に重い。黒と白が目に染みる。向き合うという一瞬が終わらない。それはまるで一瞬を永遠に閉じこめた絵の中にいるかのよう。紙成 静夢というタイトルの絵の中にいるかのようだ。
 だから、動いた。
 止まっているなんて気にくわない。待っているなんて性に合わない。
 絵画「紙成 静夢」から大巨編爽快壮絶アクション映画「神無月 愛奈」へと変えてやる……!
 そう、なんであろうとこのあたしを止める事なんてできない。あたしをさしおいて主役を張れる者なんてない!
 踏み出す先の静夢は、静かにたおやかにに手を振る。防御にしてはあまりにお粗末、攻撃ならばぬるい動き。白い指がゆるやかに揺れる。その指先に見える、微かな閃き。
 踏み出した背後から尾を引いて聞こえるのは、爆音のようなこのあたしの地を蹴った音。それに紛れて微かに聞こえるのは、無数の風切り音!
 来る!
 
「だあっ!」

 踏み込みの勢いを拳で地面に叩きつける。爆発のように広がる衝撃波。爆風と呼んで差し支えない風が一気に広がる。
 周囲から聞こえていた風切り音が乱れた。
 顔を上げ見れば、そこには目を見開く。
 視界の隅に踊るのは無数の細い線。あたしの拳で乱された糸だ。
 そう、このメイドの武器は――糸。こいつは糸使いなのだ。
 糸を武器にするなんて言うふざけた戦い方。糸なんて一本ならまるで問題にならない。しかし数を増し然るべき技を使えば糸は一転して恐ろしい武器になる。
 おそらくこの森に張り巡らされた糸によるトラップもこいつの手によるものだろう。
 油断はできない。でも、そんなものはこのあたしには通用しない。見切るのは難しくない。指先に見えた微かな閃きは糸。微かな風切り音でその操る糸の大まかな動きだってわかる。だから今だって防ぐことができた。
 いきなり初撃を乱され、たたらを踏む静夢へと迫る。
 肉薄する。拳の届く距離。すなわち必殺の間合い。
 繰り出すのは確実に相手を殲滅する全敵破壊の必殺拳……!
 
 しかし、そこで。あたしの動きは止まった。いや、止められた。
 
「!」

 手も足も動かない。辛うじて動きそうな首を巡らそうとすると、目の前の静夢の手がひらりとめぐると動かなくなる。この頭を締め付けられる感触は、おそらく糸。

「二段構えってわけね……」

 最初の糸はおとり。次の糸であたしを捉えたのだ。かなり強固な縛り方。それでいてどこが縛りのポイントなのか悟らせない巧みな糸の結びだ。もがいても無駄。手も足もほとんど動かせない。無理に力を込めると音を立てて身体が絞られる。周到なことに、動くとその分縛りがきつくなるようにしてあるようだ。
 動けないあたしの目の前、無表情に静夢はカードを取り出す。

『わたしは裁縫が一番得意です』

 そう書いたカードをあたしに突きつける。動かないあたしに見せつけるようなその仕草は、表情はなくても皮肉に溢れていることが嫌なくらい伝わる。
 そして、次のカードを取り出しさらさらとペンを走らせる。

『いくつもの罠を張り巡らしています。最初の糸をあんな方法でかわしたのは驚きましたが、手は二重三重と用意してあります』

「あれだけじゃなかったってことね」

『初めから、このSSランクメイドの静夢の守護する森で戦いを挑んだあなたが愚かだったと言うだけです』

 静夢と、というよりはカードと会話する。
 確かに森という地形は糸使いにとって有利だ。糸を隠すことが出来、また糸を引っかけ仕掛けの起点とできる枝と幹が、この森には無数にあるのだ。
 
『夜にはほどきましょう。しばらくここで固まって反省してください』

 そして静夢は会話に使っていたカードをしまう。最後に一枚、真新しいカードをとりだすと、
 
『ぷ』

 その一文字だけを記し、ご丁寧にも身動きのとれないあたしの目の前に貼り付けた。
 あざけりの笑い。それもバカにしきったいい加減な一文字。まったくむかつくことをしてくる。このあたしを相手にこんなことをするとは、ね。
 静夢はそれで用が済んだとでも言うように、背を向けて去ろうとする。
 
「確かにそれなりに見事な糸の使い方ね。でも……」

 ため息を吐いてやる。これは、失望のため息だ。そう、こいつもバカ。少しだけ期待したけど、大したことのないバカだ。

「所詮はお裁縫よね!」

 あたしの言葉に静夢が振り向く。
 しかしなにかする隙なんて与えてやらない。
 もう充分華は持たせてやった。このあたしを縛り付けられるなんて勘違いしたバカに、これ以上余裕なんてあげてやらない。
 あたしは、地面を殴りつけたときに手の中に握り込んでいた小石を指で弾いた。わずかにしか指は動かせなかったが、確かな勢いを持って飛んだそれは一本の糸に触れる。その震動があたしの身体中に巻き付く糸に伝わる。そのタイミングに合わせ、強く踏み出す。
 それだけで、あたしを縛りつけていた糸は簡単にほどけた。
 
「あ……」

 静夢の口から呟きが漏れる。間の抜けたその声は、思ったより細くて綺麗で、なによりかわいい感じの響きだった。

「なによしゃべれたのあんた?」

 普段出さない声を漏らすほどに驚いたというわけだ、こいつ。
 ああ、やっぱりバカだ。糸に自信があったのだろう。森というこのロケーションの有利さも熟知していた。油断だってしてはなかった。でも、紙成静夢は神無月愛奈を相手にしていたと言うことを本当には理解していなかったのだ。あんたごときが使う糸を、この神無月愛奈が見切れないはずはないでしょう?
 もう興味はない。だから、終わらせよう。
 無慈悲に一歩を踏み出す。容赦なく拳を繰り出す。手加減無く打ち抜く!

「はあっ!」

 叫びと共に爽快な炸裂音が響く。
 打撃は静夢の身体の中心に打ち込んだ。黒と白のメイドが、それこそ紙のように宙に舞う。
 しかし、それはすこしばかり予想外。もっと派手に飛ぶと思っていた。
 手元を見れば、あたしの拳にかかるのはレースのハンカチ。ただのハンカチではない。目を凝らさなければ見えないけれど、無数の細い糸によって辺りの木々と結ばれているそれは一種の盾。あたしの打撃の威力を半減させるほどの強固な盾だったのだ。
 
「あの一瞬で防御をしたのはさすがと言ってあげるわ」

 そう、たいしたものだ。目をやれば、地に倒れた静夢。しかし静夢は震えながらも動いている。立とうともがいている。このあたしのほとんど手加減ない打撃を受けて、意識を失わないだけでも称賛に値するだろう。
 でも、しばらくは立つこともできないだろう。
 だからあたしは、前へ。メイド学科へと進む。

「お待ち下さい」

 その声には少しばかり驚かされた。
 声の方に目を向ければ、そこにはまず地に倒れ伏す静夢。
 その脇に立つのは、一人のメイド。
 そう、メイド。
 黒のワンピース。白のエプロンドレス。ゆったりとした着衣に包まれるのは隠しきれない見事なプロポーション。それでいて華美ではなく、あくまで質素。しかし可憐。
 吸い込まれそうなほど深い色をした黒瞳。清楚に短く切りそろえた、濡れ羽色の髪。その上には、白のフリルのカチューシャ。
 おそらく万人がメイドと聞いて思い浮かべ、しかしその想像全てを越える存在が目の前にいた。
 だから、メイド。その一言で表現するしかない、それは完璧なまでにメイドだった。

「このたび、メイドチャンピオンを襲名いたしました。2年2組 名土 メイと申します」
「メイドチャンピオン……そんな馬鹿げた称号があるとは聞いていたけど……あんたなの?」

 そのメイドは笑顔で応える。
 静夢のような綺麗だけど現実離れした感のある笑みではなく、それは見ているものに安堵を与える慈愛に満ちた微笑み。前に出ず、しかし後ろに下がりすぎない。その主人に安心感を与えるだろう、メイドの笑みだった。
 メイド学科最強のメイドに与えられるという称号・メイドチャンピオン。ふざけた称号だとは思ったけれど、目の前のメイドを見れば「妥当」という印象しか湧かない。

「あたしは愛奈。神無月愛奈よ」
「よろしくお願いいたします」

 優雅に一礼を返すメイドチャンピオン。しかしあたしは油断しない。だってこいつは、あたしの認識していない間に立っていたのだ。
 あたしの視線に気づいたのだろう。名土メイは疑問の声を上げる。
 
「どうかされましたか……?」
「さっき、気配がなかったわね」
「メイドはときに影となり、ご主人様に付き従います。ご主人様のお気を煩わせる不作法はいたしません」
「おもしろいことを言うのね……で、あんたも邪魔をするの?」

 静夢を相手にするのはそれなりに楽しめた。メイド学科、すべてのメイドの頂点に立つというメイドならそれ以上に楽しめるかも知れない。しかもこいつはあたしの虚を突いて現れた。本気で相手してやってもいいかもしれない。
 しかし、メイドチャンピオンは頭を振る。
 
「なによ。まさか歓迎してくれるとでも言うの?」
「いえ……歓迎することは出来ません」

 曖昧な解答に眉を寄せる。こいつはなにを言っているのだろうか?
 
「メイド学科はメイドかご主人様となりうる方を歓迎させていただきます」
「ご主人様となりうる方?」
「そうです。このメイド学科の森は、いわば選別のふるい。この森を抜けるには、実力でトラップを抜けここにいるメイドの森守護係・静夢をうち倒すか、メイドを伴って通り過ぎるのみ……いずれも、ご主人様になる可能性のある方です」
「それじゃ……あたしは実力で抜けたわよ。ご主人様になりうる方ってわけ?」

 あたしの言葉に、名土メイは首を振る。
 
「はっ! まさかあんた、このあたしがご主人様に値しないとかいうふざけた勘違いをしてるんじゃないでしょうね!?」

 あたしが睨んでやると、名土メイは微笑みを苦笑に変える。む、このあたしがわりと本気で睨んでいるというのに動じないとは、さすがメイドチャンピオンと言ったところだろうか。
 
「いえ……あなたは才気と覇気に溢れています。あなたのような方はきっとそのちからで高みまで昇り詰める。そのような方のお世話をしたいと、多くのメイドが思うことでしょう」
「だったらご主人様としてこの神無月愛奈を歓迎しなさい」

 名土メイは顔を伏せる。
 
「ですがあなたは……自分に付き従う者を求めないでしょう?」

 そう、言った。
 その言葉は、なんだか予想していなかった。だから、すぐに反論できない。
 
「先ほど申し上げましたように、あなたはとても優れた方です。お仕えするに値すると思います。ですが、あなたは自分に付き従う者を求めない。あなたという光は強すぎて、後ろから付き従う者には眩しすぎる。だからきっと、近くにいる者は眩しくてあなたを真っ直ぐに見ることが出来ない。そしてそんな人を、あなたは認めない」

 そうだ。あたしの周りにいたのは、付き従うバカか敵対するバカだけ。どちらもあたしという存在に圧倒されてそうするしかなかった者達だ。
 そんなもの、確かに要らない。
 
「あなたの求める者は……おそらくメイド学科にはいません。かといってメイドになるおつもりもないでしょう? だからわたしは、メイド学科の代表としてあなたを歓迎することができません」

 名土メイはきっぱりと告げた。ハッキリしているけれど、それでも不快感を覚えない清廉な物言いだった。
 ああ、そうだ。ここにあたしの求める者なんていないだろう。人に仕えるために研鑽している者の中にそんなやつがいるはずもない。
 竜ヶ崎みたいなバカはいないだろう。
 ふと、竜ヶ崎の顔が浮かんだ。
 愚直なぐらいまじめで、わき目もふらずひたむきで、なにより一生懸命だった。ただそれだけの、バカ。それでも、あたしに付き従うわけでもなく、かといって敵対するわけでもなく、ただ追いつこうとしたバカ。
 なぜだか急に、メイド学科への興味が失せてきた。
 
「……もう、心の中に大事な方はいるようですね」

 名土メイの言葉にはっとなる。
 なにか楽しげな笑みを浮かべたメイドチャンピオン。
 気づけば名土メイに顔を覗き込まれていた。
 そのことに気づくと、なぜだか無性に恥ずかしかった。

「そんなやつはいないわよ!」

 大声で叫ぶと、名土メイは優しく微笑む。むかつく。ああ、なんだこの感じ。頬が火照って仕方ない。なんだかむかつく。むかつくのに、なんだか暖かい。奇妙な感じ。
 でも、それが不意に切なさが変わる。
 今いったこと。いない。あのバカはいない。だっておいてきた。もうついてくることはない。
 それだけ。
 それだけのことが、なぜだか胸に響く。このあたしが、自分のたった今言った言葉を不快に感じている。
 そう、いない。あのバカはいないのだ。
 ただ、それだけのことなのに。
 
「ふん……とりあえずメイド学科に行く価値がないことはわかったわ。今日はそれなりに楽しめたし、帰ることにするわ」

 なんだこれは。まるでこのあたしの言葉が負け惜しみのようだ。
 でもあたしは負けていない。紙成静夢には勝利したし、メイド学科は行く価値のないものとわかった。それだけだ。
 でもこの場にいたくない。なんだかいやだ。
 それに、ちょっと。ちょっとだけ、なんだか胸が痛い。
 足を速める。森の中、それでもあたしはトラップにかかることなく進む。
 竜ヶ崎。
 なんだか今日はことある毎に竜ヶ崎のことを思い出しているような気がする。なんでこのあたしがあんなバカを気にかけなくてはならないのか。くだらない。本当にくだらない。
 そうだ。今日はそれなりに退屈ではなかった。
 確かにあのバカといて少しは退屈は紛れた。でもそれだけ。この学校はそれなりに楽しめそうだ。暇つぶしにはなる。
 おもちゃ箱は最初にひっくり返すもの。でも。でも、たまには。ひっくり返すまでを楽しんでもいいかも知れない。どうせ時間はある。こういうのもいいだろう。

「だから、あんたなんかいらないのよ、竜ヶ崎……」

 ふと口から出た呟きは自分でもビックリするほど冷たく響いた。
 なぜだか、一粒。一粒だけ。涙が、こぼれた。
 その理由はわからなかった。わかりたくないと、理由もなく思った。
 
 そして、あたしの転校初日は終わった。





 このときのあたしは、また竜ヶ崎と会うなんて思ってもいなかった。
 だからこの時あたしが思っていたことは、バカみたいに下らなくて意味がなくて、それなのに切なくて……きっと大切だった。
 そのことに気づいたのは、この学校で竜ヶ崎と再会して、いっしょにいることになって、そのことに慣れて、そして……あたしとしたことが気づかなかった、あたし自身の気持ちに気づいてからだった。


 Fin



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