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光音のいない日々




 目が覚めると、朝飯を食う時間すらなかった。
 急いで着替え、学校へ全力疾走。
 もうとっくに登校しているはずの旨美に邪魔されることなく、通学路を駆け抜ける。
 校門を閉める清水先輩のため息を背に、辛うじて学校へとたどり着く。
 教室に入ると既に席に着いている守屋が振り向く。
 いつもの笑顔。だが、どこか遠く思えた。
 後ろの橘に目を向けることもなく、席に着き荒い息を整える。
 
 そして、今日も授業が始まる。
 試験期間も終わり、ただ返される試験に一喜一憂する消化試合みたいな退屈な授業。眠気を誘う板書の音と、念仏みたいな先生の声をBGMにぼんやりとノートの上でシャーペンを滑らせる。
 投票日前のどこか熱の帯びた空気も今はない。「やり終えた」という感じのどこかけだるい、でもゆったりとした空気が漂う。
 
 あれから一週間が過ぎた。

 あの日から光音に会っていない。顔すら見ていない。
 光音は猫のように距離を保つやつだった。その距離が広がった……そうとしか思えないほど、全く会わない。時間が合わないから通学路で会うこともないし、廊下ですれ違うこともない。帰り道が同じハズだが、見かけることもない。そもそもあんなひどいことを言ってしまったのだ。光音も俺と会いたくはないだろうし、俺にしたってどのツラ下げて会えばいいのか分からない。
 でも、なんだか落ち着いた。
 今の状況は別に特別な事じゃない。だいたいアイツが家にメシを作りに来るまで、それは当たり前の日常だったのだ。
 でもそれは都合が良かった。どんな顔をしていいのかわからなかったから、かえって都合がいい。
 
 旨美ともあまり会わなくなった。もともとアイツは結構早めに学校に来る。俺は今まで通り遅刻ギリギリに走ってくるので会わない。それ以外の時間にもちょこちょこちょっかいをかけてくることはあったが、最近はそれもない。
 一度、下校するとき玄関前の廊下ですれ違ったことがある。
 そういえば、出会い頭に突進してこないこいつを見るのは久しぶりだと思った。
 
「つまらなくなったな、おまえ」

 そう言って、ムッとした顔で俺の脇を通り過ぎていった。
 なんのことだかわからなかった。だが、少しむかついて、少し、なんだか……胸の辺りが苦しくなった。
 
 清水先輩とも話す機会が減った。遅刻する俺を、仕方ないといった表情で見送るという、光音が来るまでは当たり前だった構図――それに戻っただけなのだが。
 でも、一度だけ聞いてみたことがある。

「……俺のこと捕まえないんですか?」
「前にも言ったけど……あんなの公式の記録に残したくないのよ。だいたいああいうのって、現行犯で捕まえないと意味がないと思わない?」
「俺のこと、うらんだりしてないんですか?」
「ああ、私を投げとばしたこと? そりゃまあ痛かったけど、私の方も本気でやってたんだから根にもったりはしないわよ」

 そう、サッパリと言った。
 どこか楽しげに見えたのは気のせいだろうか。
 
「それに、投票は止められなかったけどまだ終わった訳じゃない。……絶対、発表日は潰してやるわ。そのときも邪魔するんなら、こんどこそ負けないわよ」

 ぐっと握り拳を作り熱く語る清水先輩は、相変わらず強そうだった。


「光音ちゃんどう? ちゃんとお礼言ってる」

 帰ってきた母さんは、慌ただしく荷物をまとめながら俺に聞いた。
 父さんの単身赴任もまだまだ続くらしく、母さんは身辺整理と荷物の持ち出しなどのために一度家に戻ってきたのだ。一晩だけ泊まって翌日すぐに出発するという慌ただしいスケジュールだ。
 無言で食費の入った封筒を見せると、
 
「あら、喧嘩したの? そういうときは、男の方から謝るのが一番よ。なんでもいいからまずは謝っちゃって、それからとにかく話す。話さないことには何にも分からないんだから」

 母さんは、簡単なことのように難しいことを言う。
 俺は苦笑するしかできなかった。


「高坂くん、最近元気ないね?」

 守屋はいつも通りだった。
 休み時間など、たまにやってきては話しかけてくる。微妙にその回数が減ったような気がしたが、それは俺が神経質になっているからそう思うだけなのかも知れない。
 投票日いろいろあったが、そのことについてあまり聞かれてこないのはありがたかった。
 でも、いつもの明るい笑顔にどこか陰を感じることがある。そのことだけだ、少し気にかかった。
 
 
 そう言えば橘ともあれっきり話していない。
 すぐ後ろの席にいる橘だが、普段はこっちから話しかける機会はないし、休み時間になるといつの間にかどこかに行ってしまう。まあ、それは前から変わらないのだが。
 光音や旨美を煽って投票日にあの山に来させたのは正直むかつく。でも、全てが終わってしまった今そんなことを気にしても仕方ないように思えた。なにより、俺はアイツと話したくないだけなのかも知れない。

 
 だらだらと時が流れる。
 その間に返ってくる試験の結果は……。まあ、ろくに勉強してなかったのでひどいものだった。そこそこ出来る数学や現代文ぐらいがなんとか平均点を超えたぐらいで、あとは赤点ギリギリだったり一線を越えてしまったりしていた。たぶん補習は確定だろう。
 でも、あまり気にならなかった。
 なんだか、いろいろなことがどうでもいい。
 ぼんやりと時間だけが過ぎていく。
 少し前まではあんなに一日が長くて、本当に色んな事があって。
 いろんなことが、ただ当たり前にあった。
 騒がしかった、二週間たらず”日常”。
 あんな日々がいつまでも続くと思っていたわけじゃない。
 でも、こんなにあっさりと、なんの痕跡も残さずなくなってしまうなんて思わなかった。
 簡単になくなった。
 あっけないほど簡単になくなった。
 残ったのはいままで当たり前だった、少し前の、やはり”日常”だった。





 そんなある日。終業式を翌日に控えた放課後。
 俺は屋上に来ていた。
 いよいよ熱くなる夏の熱気が残る屋上には人が来ない。試験もあらかた返ってきてあとは夏休みを待つばかりの日々、わざわざ授業の終わった時間にこんな場所で時間を潰す人間なんてほとんどいない。
 俺と俺を待ち受けるそいつは、その少ない側の人間だった。
 
「やあ、時間通りに来てくれたね」

 橘は軽薄に手をひらひらとふりながら出迎えた。
 この暑さの中でも不自然にさわやかな笑顔をうかべている。こいつのこう言うところを見るたびに、こいつには人間として大切なものがいくつも欠けてしまっているんじゃないかと思ってしまう。
 
「……わざわざ呼び出すなんて、何の用だ?」

 不満げに言う。
 どうでもいいと思っていても、やはりあの時のことを思い出すといろいろとむかつくものがある。
 こいつは俺を利用していた。それは最初から分かっていたことだし、別に今さら怒る事じゃない。
 それぐらいはわかっている。
 それでも、割り切れないものがあるのも事実だった。
 
「元気がないね」
「……別に。それより、何の用だ?」
「いや、なんて言うか……」

 橘は大げさな身振りで顔に手を当て、嘆かわしいといわんばかり頭を振る。
 
「見るに見かねてね」
「なにがだよ?」

 口調が棘のある者になってしまう。こいつのもったいぶった言い方にはうんざりする。特に今は、むかつく。
 橘は俺のいらつきをよそに、いつも通り自分のペースで語り始める。
 
「もちろん、川波光音のことだ」
「お前には関係ない」
「……確かに関係ないかも知れないね。投票はもう終わったし、あとは結果を待つだけ……たしかに関係ない」

 サイレント・フェスティバルの投票は終了した。集計も終わったのだから、あとは発表を待つだけだ。橘が光音に干渉する理由なんてない。
 それに食費が手元にある今、俺にとっては光音が優勝するかどうかすら関係ない。だから橘と光音の事について話す必要なんて全くないはずだった。

「そうだ。お前とあいつのことを話す必要なんてない」
「話す必要はない? 違うね。君は『話したくない』んだ。また逃げようとしている」

 瞬間、俺は橘の胸ぐらを掴む。
 
「いいかげんにしろよっ……! いつもいつも余計なことばっかりしやがって、水に流してやるって言ってんだから黙ってろよっ!」

 そうだ。こいつのせいで光音は泣くことになった。
 メイド服の時。制服を隠したとき。そして、投票日に光音が来てしまったとき。みんなみんなこいつのせいだ。
 こいつは、橘は状況をひっかきまわして楽しんでいる。
 でも、俺はそのことはもう気にしないと言っている。だからこれまでも橘を追求することはなかった。それなのに、こいつは俺を挑発するかのように言ってきやがるっ……! しかも、「逃げる」だと? 俺が何から逃げているって言うんだ。
 
「それが問題から逃げようとしていると言うんだ」
「おまえなあっ……!」

 「逃げる」と言う言葉をまた言って挑発してくる橘に、胸ぐらを掴む手に力を込める。
 
「ほら、図星だ。だから怒ったんだろう?」
「いいかげんにしないとっ……!」
「……また、殴るのかい?」
「ああ、殴ってやるさっ!」

 とっくに残った手は拳を作っている。
 俺は振りかぶり……。

「……そうだね。君が自分でやったことと言えば、僕を殴ったことぐらいだね」
「なっ……?」
「君は僕の計画通りに動いてくれた。僕の言うとおり行動して、僕の計算通りの成果を上げてくれた。とてもありがたかったよ」
「……なにが言いたいんだ、お前?」
「君は、自分からは何もしていない」

 橘の一言に、混乱する。
 むかつく、しかし重く感じられるその一言。
 
 「自分からはなにもしていない」
 
 サイレント・フェスティバルに参加しようと持ちかけたのは橘だった。
 光音にメイド服を着せる作戦も、アクセサリを買うことにしたって橘が持ちかけたことだ。
 投票日の防衛戦に参加したのにしても、橘に促されたことがきっかけだ。それがなければ行かなかったかも知れない。
 そして防衛戦の間もただただ守屋の指示で戦っただけ。
 答は簡単にでてしまう。
 俺が何をしていたか?
 ただ、状況に流されて行動しただけだ。
 何かしようとか、そういう展望みたいなものはなく、ただただその場をこなしてきただけ。
 俺は……自分からは何もしていない。
 
「君は自分からはなにもしていない。自分で判断して何かをすることから逃げている」

 何も答えることが出来ない。
 橘を掴んでいた手から力が抜ける。
 襟を正しため息を一つ吐くと、橘は俺に問いかける。
 
「投票日の前、”答”を見つけるように言ったね。……君は、”答”を見つけることが出来たのかい?」
「見つけた……! 見つけたさっ!」

 そうだ。俺はあの投票日で、「光音が好き」だって事に気がついた。
 今まで必死に目を逸らしていた想い。それに、気づいた。気づいてしまったんだ。
  
「見つけた、か。でも、君はまだ”答え”を得てはいないね」
「何を言っている……?」
「君は”答え”を見つけたかも知れない。でも、触れるのが恐くて、自分が傷つくのが嫌であることを知っただけで手は出さずに逃げたんだよ」
「なに悟ったようなことを言ってやがるっ! お前に何が分かるって言うんだっ!?」
「いくら親友だからと言って、君のことが全て分かる訳じゃない。でもいま君が逃げていることだけは断言できる」
「どうしてっ!?」

 橘は俺の目をじっとみて語った。その瞳は真剣。いつものどこか楽しみような、不真面目な輝きはない。

「だって、君は川波光音のことを放っているじゃないか」
「俺はっ……光音を傷つけたくないんだ」

 目を逸らし、吐き捨てるように言う。
 これ以上傷つけたくない。
 光音を好きだから……これ以上傷つけたくないんだ。
 人形を壊してしまったあのときのように。どうしようもなく悲しい顔をしたあいつを見たくない。
 だから俺は光音を突き放したんだ。
 そのことは光音は傷ついてしまったかも知れない。でもきっと、近づけばもっと傷つけてしまうこともあるだろう。それが恐い。好きなひとを傷つけてしまうことがこわい。
 だから、俺は……。
 本当は光音に会いたいのに。こんなに苦しいのに、会わないでいる。
 それは逃げてるって事じゃない。
 
「君は自分のことしか考えていないんだね」

 橘はため息混じりに言った。
 そのさまに、カッとなる。
 こいつは結局分かってない。分かっていれば、そんなこと言えるはずがないっ!

「俺は光音のことを考えているっ! だからっ……!」
「だから会わない、と? 違うね。君は自分のことしか考えていない。『川波光音のことを考えているという自分』のことを大事にしているだけだ」
「違うっ!」
「違わない」
「違うっ!」
「違わない」
「絶対に、違うっ!」

 あくまで否定する俺と、あくまで肯定してくる橘。
 橘は、俺の肩を掴む。
 目を逸らさず、真っ直ぐに言う。
 
「よく考えて見ろ。川波光音がどう思っているか。君は本当に川波光音が喜んでいると思うのか? 君と離れて、喜んでいると思うのか?」

 近くにいた光音。
 朝はいつも起こしに来てくれた。
 登校の時も一緒。早歩きをすれば、俺の近くに、”定位置”につこうとした。
 昼休みは一緒に弁当を食べたし、帰り道も大抵いっしょで、買い物を手伝ったりもした。
 夕飯のときもいてくれたから、寂しいと感じることもなかった。

「君は川波光音とちゃんと話したのか? 彼女がどう思っているか、君は本当に分かっているのか?」

 光音が、どうかが言えているか?
 光音の、気持ち……。
 わからない。
 光音のことはよく考えているつもりだった。
 でも……光音がどう思っているのか。こんな当たり前のことを、今まで考えていなかった。
 そのことに愕然となる。

「それが『答を見つけていても得てはいない』ことだって言うんだ。『川波光音を傷つけたくない』。それを言い訳に、自分が傷つかないようにしているだけなんだ」

 橘の言葉が突き刺さる。
 がっくりとうなだれる。
 こいつの言葉はむかつくし、しゃくに障る。
 でも、嘘じゃない。
 嘘じゃないとわかっている自分がいる。
 だから、その言葉は……痛い。

「答えは自分の手で掴み取るしかない。それ以外に得ることは出来ない。その結果、傷つくこともあるだろう。失うものもあるかもしれない。それでも……答を得るには自分の手を使うしかないんだ」
「橘……」
「そのためには行動することだ。僕はいつもそうしている」

 そして、橘は背を向け歩き出した。
 俺のこと。
 光音のこと。
 光音と離れていること。
 光音といっしょにいたこと。
 俺の思っていること。
 光音は、どう思っているかということ。
 ぐるぐると、頭の中でいくつもの事が巡る。
 ギイ、という屋上の扉の開く音で我に返る。
 橘が出ようとしていた。

「お前、結局何が目的なんだ?」

 思わず呼び止める。
 橘は『幻のメニュー』とかを食べるために参加したという。しかし、それだけでこんなことまではしないはずだ。
 
「雅弘くん、僕はね……自分が「いい」と思ったことをやりたいんだよ。立ち止まらず、振り返らず、まっすぐに全力でね」
 
 橘は振り返らずに答える。
 そして、
 
「だから、それなりの準備はさせてもらうよ……」

 そんな言葉を残し、橘は立ち去った。
 扉の閉まる音が、夏の夕暮れにやけに高く響いた。

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